1964年3月10日、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)に生まれる。

3歳のときに埼玉県川越市に転居。

国体で走り幅跳び、4x100mリレー4位。

1982年早稲田大学教育学部に入学。同時に競走部(陸上部ですね)入部。当時はまだ瀬古氏を育てた中村監督が在任しておられ短距離、跳躍選手にとっては大変な環境。そんな中、足首の靭帯を損傷、選手生命を絶たれる。

大学2年から始めたスキーが高じて3年の冬から磐梯クナイスルスキースクールでインストラクターを始める。

大学4年の卒業論文でゴルフスウィングの分析をしようと思いつき研究をしてみるとレッスン書やゴルフ界で言われていること(未だに同じ事が手を変え品を変え言われ続け、ゴルファーを惑わせ続けているのは悲しいことですが・・・)

1986年早稲田大学教育学部卒業。

1987年渡米。

University of Illinois, Urbana-Champaign校Kinesiology学部に入学。Biomechanicsを専攻。

ChicagoのO'Hare空港からUrbana-Champaign空港へプロペラ機で向かう。到着すると荷物が見当たらない。

初めて訪れる土地で、当時はまだナイーブだったのでかなり不安な思いをする。輪をかけて、寮の手配をしてあったはずが、それも無く、結局空港からのタクシーの運転手さんに紹介してもらい、街のモーテルに1ヶ月以上居住することに。

当然、食事は外食、でも、部屋の掃除はしてもらえたから今思えば、結構楽ができました・・・

Urbana-Champaignは夏から冬へと(2週間くらいの間に)一直線に向かい、寒くなると、何かで口をカバーしないと呼吸もできないくらいに寒かった。5分外を歩いては5分建物の中で温まりまた5分気合を入れて歩く。それでも、そこで生活するのが大好きな人たちも居た。そろそろ寒さに身体が悲鳴を上げ始めた半年後、担当教授の転勤とともにCorvallisという人口4万人弱の街にあるOregon State Universityに編入。

オレゴン州のシステムは変わっていて、州内ならばどの大学で講義を受けても、それが単位変換できるというものだ。教授の勧めで、同じ分野でも様々なアプローチがあるからできるだけ多くの教授から学んだほうが良いとの助言を受け、1時間南のEugeneにあるUniversity of Oregonにも週に2度通い学ぶ。

その当時は、ナイキやアシックスのスニーカーの研究開発を手伝わせていただきました。修士論文はランディング動作において、人間が物理的負荷を与えられた場合ニュートンの法則に即した反応をするのか、神経系のコントロールにより異なった衝撃吸収の方法をとるのかを検証。

修士修了後、半年間コロラドスプリングスのUSOC(アメリカオリンピック協会)トレーニングセンターにて研究活動にいそしむ。このとき、メンタルトレーニングのすさまじい発達を垣間見た。科学を科学で終わらせず、実際の場面にフィードバックして活用する。これぞ科学の真髄だと感じた。残念ながら、こうしたことはゴルフでは現在でも一切行われていず、似非科学的な”薀蓄”が常識としてまかり通っているのは嘆かわしいことです。

1990年、再びOregon State Universityに戻り、博士課程へ入学。

Biomechanicsのみならず、スポーツサイエンス全般を学び統計学、機械工学、エルゴノミクス、コンピューターサイエンス、コーチング、心理学、教育学等など、多くの周辺分野を学ぶ(学ばされる・・・か?)。

博士課程在籍中、スポーツ心理学やモーターコントロールの研究室の方々から一緒に研究をしようとのオファーを受け(統計学やコンピュータプログラムを書くのが得意だったのでデータ分析やその他で有用だったのだろう・・・・・)Biomechanicsと他分野を組み合わせた研究を多数実施。今考えると、こうした学際的な研究を頻繁に行ったことが、様々な分野を包括的に考慮する方法論の必要性を感じることのきっかけになったのだと思う。机上の理論では分けることができても、実際に人間が実行するためにはすべての要素を包括した最大公約数的要素を考慮しない限り、全くと言ってよいほど役に立たないことが多いのが現実なのである。

実は、私は決してゴルフだけが専門ではないのだ。アメリカに在住中様々な研究をした。スポーツと骨密度、骨疎髭症との関係、マウンテンバイクの「ロックショックス」の開発、衝撃吸収インソールの開発、バランス機能の測定器「バランスマスター」の開発、ハイヒール歩行動作の研究、腰痛や握力など、判別の難しい労災問題を解決するための研究。有名なUPSのパッケージに「Heavy」などのマークを明確に入れ、労災を減少させるきっかけになったのは私たちの研究だ。

サイバービジョン・ゴルフ・インストラクション・ビデオの有意性の検証。マラソン選手やクロスカントリースキー選手の動作分析、などなど、様々な動作の分析に関与。

博士論文の題材には、かねてから興味のあった、ゴルフ・スウィングの分析を選択。分析が余りにも困難なため周囲からの「やめろ」との助言も聞かず、敢行。

日米のエリート・プロフェッショナル・ゴルファーの共通要素の定義に挑む。

実際に論文をプロポーズし実施する前にPreliminary Examと呼ばれる大学院で履修した全てのクラスをカバーする16時間の筆記試験と8時間の口頭試問をクリアしなければならない。

過去には、このPrelimを3回失敗し、それまでの苦労が水泡となった学生も少なくないと聞く。Pure pressure!

PrelimExam第1日目、Majorはスポーツサイエンスだったが、Minorが統計学だったのでもちろん統計学からの出題もある。

一人ぼっちの部屋に押し込まれ、問題用紙に向かって孤独な8時間を過ごす。これが丸二日間続く。

試験第2日目。これは自分の最も得意とする分野のスポーツサイエンスであるだけ結構余裕だった。

口頭試問では、筆記でカバーできなかった知識を、実際にコミティー(私一人に対して6名に教授が指導的立場に就くのです)の教授方に囲まれて1対6での集団いじめ(笑)。愕然としたのは統計学部の教授が「あれは、解くことができない問題なんだ」との一言。何しろ、方法論が存在しない問題にどうアプローチするのかが見たかったとのこと。「意地悪!先に言ってよ・・・」。そうだったら、どれだけ精神的に楽だったか・・・

そういえば、修士論文の発表のときも大学院の代表の偉い教授が私の発表中、一度も私から目を離さない。ずーっと「じーっ」と私の目を見ている。発表している本人は、心臓バクバク。後から聞いたら前日のテレビの特集で「話し手の目を見ていると次に何を話すかが分かる」というのをやっていたらしく、それが外国人にも当てはまるのかを知りたかったとのこと。「先に言ってよ・・・」。結論は、「予測できなかった」とのことです。まあ、そんなお茶目で、好奇心の固まりの人々でないと、アメリカの大学の教授にはなれないのでしょうな。余談でした。

ということで、無事にPrelimExamをパス。

一路、博士論文だけの毎日へ。

論文のDefense当日。教授の方々に囲まれておよそ1時間30分のDefenseを終えて、教授の方々だけが部屋に残り、私は一人廊下へ出され待つこと20分。主任教授のDr. Gerald Smithがドアーをあけ"Congratulations Dr. Fujimoto"と口にしながら握手を求めてきてくれた。あの瞬間は、これから先の人生決して忘れることは無いであろう感動の一瞬だった。

1995年2月、晴れてDr. Koichiro Fujimotoになった。

その後半年間、Oregon State Universityで客員研究員の肩書きをいただき、研究と学生の指導に当たる。

Post-Doctoral Fellowship ResearchのオファーをPennsylvania State Universityからいただき、ロシアNo.1と呼ばれるDr. ZatsiorskyとアメリカNo.1と言われるDr. Nelsonのもとで、人間の動作を研究する新しい継続的分析を可能にする統計的手法の研究を一年間させていただいた。

その後、Arizona State Universityで客員研究員を務め1997年8月に帰国。

帰国後、雑誌の連載やレッスンをしながら某メーカーのゴルフクラブ開発を2年余任される。もともと、物理的にはゴルフクラブのバランスシステムは全く有効性が無いので、根本的解決を目指す。これが、今日のGolfin' Dawnのクラブの理念のベースになっている。

知的所有権が厳重に確立されたアカデミアから全く存在しないゴルフ業界へ。これにはいまだに馴染めない。きちんと自分で研究してきたことを勝手に自分のことのように言ってしまうのは私にとっては最大の罪。これが横行する。しかも、理論的に絶対に共存しないことが取ってつけたようにレッスン書の中では仲良く並んでいる。残念ながらレッスン書を作っている人はそれを教科書とはみなしていないし、それを読んで勉強したレッスンプロは、レッスン書を鵜呑みにして、聞きかじりの”理論”を”わが知識”であるかのように吹聴してまわる。もちろん、殆どのインストラクターが一時期はトーナメントプロを目指してゴルフ練習に勤しんだ過去があるから、ボールを打つのはそこそこ上手い。なので、一般ゴルファーにははったりが効く。でも、現実問題として自分がボールを打つことと、人に動作を教えることは全くの別物。この悪のスパイラルは今も手を替え品を替え継続中である。
それを知らずに一生懸命何十年もがんばり、できないと己の能力の無さと悲観する一般ゴルファーの方々に、何とか私の知っていること、分かっていることを生涯をかけて伝えたい。

1999年、厚木ゴルフプラザのご厚意をいただき、PMAゴルフアカデミーを開始。

Waggle別冊、「強いゴルフを作る本」、ぶんか社「スウィングは2拍子で振れ」、高橋書店「ボディーターンの新セオリー」著作。

その後、MKゴルフデザインのお世話になりDr.コーイチローのゴルフクリニック、JALアカデミーゴルフクリニックを開催。長年連載をさせていただいたゴルフクラシックの連載をまとめ日本文化出版社「キックザセオリー」著作。